ミッチーナでの洪水体験

2004年7月22日

7月18日(日)
いつものように同僚スタッフ2人と朝8時にホテルを出た。そのときすでに、エーヤワディ(イラワジ)川の水かさが増えていることは聞いていたが、まさか洪水が起ころうとは思ってもいなかった。村へ行く途中、小さな橋を渡るところがあり人が集まっていた。増水している川を見ているようだった。

ミッチーナの北約43キロには、インドシナ半島を流れる大河イラワジ(ビルマ名:エーヤワディ)川の起点となる二つの川が合流する地点がある。このため、ミッチーナの北で大雨が降ると、ときとして大規模な洪水がミッチーナを襲うことになるのである。この洪水は、エーヤワディ川を時間とともにゆっくりと下流へと進み、マンダレーなどの都市をも飲み込んでいく。

このエーヤワディ川に架かる500メートルはありそうな橋を渡りしばらく行くと、逆方向からバイクに乗った兄ちゃんがしかっめ面をして手を振りながらやって来た。どうやら先へは進めないと言っているらしい。案の定、しばらく行くと大きな水溜りがあり人が集まっている。ドライバーが歩いて様子を確認しに行ったところ、道路が水浸しでこれ以上は先に進めないらしい。あとでわかったことだが、少し先の木橋は流されてしまったらしい。木でつくった粗末な橋なので、当然といえば当然か。前の日でもこのエリアはすでにだいぶ水に浸かっていた。土地が低いようだ。


村へ行く予定がこれでつぶれオフィスへ戻った。しかし問題は、隣町のワイモーのスタッフがミッチーナへ来れるかである。今日はSRGモニタリングのまとめを話し合う打ち合わせがあるので、スタッフの全員が参加してもらわないと困る。同僚は、スタッフが来れなければ、明日の帰りの便を延期しないといけない、と言う。ひとまずドライバーが行けるところまで車で行って、そこからはボートを借りてワイモーへ行き、スタッフを迎え行った。このときエーヤワディ川はすでに氾濫し、流れがあまりに速いので当局が渡し舟にストップをかけていた。

12時ごろになりワイモーのスタッフたちがやって来た。その後は、このルートも洪水で使えなくなり、かくしてスタッフたちはミッチーナで2泊することになった。

13時前から、まとめの打ち合わせを始め、19時ごろに終わる。ワイモーへの帰りを心配していたスタッフがいたが、帰れないとわかりがっかりしたようだった。しかし、事態は思っていたよりももっと深刻になりつつあった。

その夜、いつものように中華レストランへ行くといつもよりも客が多い。他のレストランが洪水で閉まってしまったことと、ミッチーナに取り残された人でごった返していたというわけだ。ミッチーナは陸の孤島と化してしまった。私が泊まっているホテルには、街から出られなくなった多くの人が詰めかけ満室となった模様である。外の喧騒とは裏腹に、私はホテルの3階で平穏な夜を過ごさせていただいた。しかし、このときにも川の水は増し続け、街の南には水が侵入し始めた。あとでわかったことだが、街の約半分が浸水したとのことだ。


7月19日(月)
翌朝、空は相変わらずどんよりとしており、小雨が降っていた。この日はヤンゴンへ帰る予定になっており、その飛行機が心配された。まさか洪水のためにキャンセルになることはあるまいと思い、市場へとみやげ物を買いに出かけた。まず、小さな店でシャンヌードルを食べ、いざ市場へ。しかし、残念なことにこの日は「母の日」で祭日、市場は休みだった。開いている店もあったが、話を聞いてみると、洪水に備えて売り物を高い場所へと移動させているという。そんな中、スタッフの一人がよく買うというロンヂーの店で妻のための布を買い求めた。カチン独特のデザインが施されたシルク生地でロンヂー一枚とブラウス1着がつくれる大きさである。ちなみに値段は1万チャット(10ドル少し)。ロンヂーのあとは、これもカチン特産のパイナップルを買った。20センチから30センチの大きさのものが3個で200チャット、なんと25円という安さである。しかも味は最高!これで土産は万全。あとは飛行機に乗って帰るだけである。

しかし、嫌な予感というのは当るもので、飛行機は10時半頃の時点でキャンセルが決まった。飛行場自体は洪水の被害を免れたものの、そこへの道路が水に浸りアクセスができないという。早朝に得た情報では、浸水しているところをボートで渡れると聞いていたのだが、多くの乗客は裁ききれないと航空会社が判断したらしい。

そうこうしているうちにも、河の水かさは増し続け、家々が水に浸かっていく。スタッフの家も浸水し、多くの人が被害を受けた。しかし、被害はミッチーナに留まらず、タウンシップ・オフィスのあるワイモーはより大きなダメージを受けた。オフィスは、床上約60センチまで浸水した。また、下流の村々への被害はさらに甚大になると心配される。多くの村では田植を終えており、仮に洪水が水田を襲えば、若い苗は壊滅的なダメージを受けるだろう。他にもグレープフルーツの苗床なども心配される。普段からギリギリの生活をしている貧しい農民にとっては、想像を超える被害となっているはずである。

そんな被害甚大の洪水のときに少し不謹慎かもしれないが、ふと思ったことは、娯楽の少ないミャンマーでは洪水は一大イベント、エンターテイメントなのだなあということである。昼夜を問わず、洪水を見物する人はたくさんいて、家族連れで出かけている人たちも多く見受けられた。中には、車をチャーターして、街の洪水スポットを見学して巡る「洪水ツアー」を楽しむ人もいるようだった。何を喋っているのか言葉はわからないが、どこの地区で浸水があったのかといった情報を交換している様子も見られた。何しろ、1989年以来の大きな洪水である。


7月20日(火)
この日も朝から小雨が舞っていたが、河の水は引いてきた。前日、浸水していた家々は顔を出し、浸水の後を物語る線がくっきりと壁に残っている。また、材木を満載した船が、今では陸となった川岸にその体を横たえている。船乗りたちは重そうな材木を一つひとつ下ろしているが、今日中に終わるのだろうか。

午後になり、太陽が顔を出した。考えてみれば、随分と太陽を見ていない気がする。ふいに、ミッチーナに到着した7月12日は快晴だったことを思い出した。あの日は確か、前の日が大雨だったので、お前たちはラッキーだったとか何とか誰かに言われた気がする。果たして本当にラッキーだったのか。私は8日ぶりの太陽を見ながら考え込んでしまった。ラッキーだったことといえば、行き付けの中華レストランで懸賞つきのビールを5夜連続で当てて、タダ酒を飲んだことぐらいだったのではないか。自分のしょうもない運に半分喜び、半分気味悪がり、まさかこの代償が洪水とは…。いやいや、いくらなんでもそれは考えすぎだろう。


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