ビルマの旧日本軍

2004年6月1日

東南アジアでは、多かれ少なかれ太平洋戦争で残した私たち日本人の足跡を感じることが少なくありません。

この写真はチン州のある村で撮ったものです。左のおじいさんは74歳で日本軍がチン州にやってきたときには12歳だったそうです。62年前、1942年9月のことだったそうです。

「わしらの村に来たとき、日本軍は何も悪いことはしなかったよ。村からはニワトリなど食事を提供したね。わしは、日本軍の一兵卒から日本の紙幣をもらい今でもそれを大事にとってあるよ。それに、次に日本軍がやってきたときのためと言って、ある手紙をもらったんじゃ。その手紙には、この村は日本軍の敵ではないので、乱暴をしないようにと書いたあったそうな。今では失くしちまったけどね。」

また、私がこの2ヶ月ほど前にラカイン州ブティダウン郡のある村へ行ったときも、同じく74歳の老人に会いました。なんと、このおじいさんは今でも日本語を少し覚えていました。1から5まで数えたり、「ニワトリ」などの単語を口にしていました。このおじいさんによると、日本軍はとても勇敢だったそうです。また、マウンドー郡の中心都市マウンドーには、日本軍が使っていたという事務所が残っており、今は警察署の宿舎となっています。私はそこで3泊ほどお世話になりました。幽霊が出るのではと少しビクビクしましたが、幽霊を見ることはありませんでした。

チン州でもラカイン州でも驚いたのは、こんなところまで日本軍がやってきたのかということとでした。しかし、それよりも、そういう旧日本軍の動きをまったく知らない自分に対して恥ずかしくも感じました。地元の人たちに言われるまでは、何も知らず、のん気にその土地を踏んでいるわけです。たまたま私が訪れた村では幸いにも旧日本軍による乱暴はなかったものの、ミャンマー全体ではそうではないでしょうし、東南アジアのほかの国では心が痛むような話も聞きます。

例えば、今はインドネシアから独立した東ティモールという国を私が2000年に訪れたときには、日本軍が撤退した日を記念した記念碑が立っていました。地元の軍隊は日本軍と勇敢に戦い、日本軍を追い払ったそうです。このときも、こんなところまで、という驚きと同時に自分の無知を恥じました。

日本ではほとんど忘れられてしまったかに見える太平洋戦争の傷跡はまだまだ東南アジアでは見て感じることができます。私自身、日本にいるときはほとんど意識していませんでした。学校教育でも、どうでもいいような古代史に時間をかけますが、私たち日本人がいまを生きるための常識ともいうべき第2次世界大戦での日本軍の動きについてはほとんど習う時間がありません。もっとも私が学んだ80年代の話であって、今は異なるのかもしれませんが。いえ、異なると願いたいものです。


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